#81【中学校社会科 歴史ノート】第二次世界大戦③ 民衆の生活と被害

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てぃ~ちゃ~Mです

今回は#81【中学校社会科 歴史】「第二次世界大戦③ 民衆の生活と被害」を紹介します

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もくじ

ノート用まとめ

戦争への協力

・軍需品中心の生産→生活物資の不足→配給制

・若者が軍隊へ→工場や農家の人で不足→生産減少

・学生~高等学校や大学生は学徒出陣で戦地へ/中学生は勤労動員/小学生は学童疎開

強制連行

朝鮮や台湾、中国本土から連行

・炭坑や土木工事などの重労働で低賃金

・徴兵や従軍慰安婦

本土空襲

米軍のサイパン占領(B29の本土爆撃範囲内に入る)

・1945年3月~東京大空襲

・1945年5月~大阪大空襲

沖縄戦

本土防衛の捨て石

・1945年4月~沖縄本島へ米軍が上陸

・1945年6月~日本軍全滅

・死者~米軍:1.3万人/日本軍:10万人/沖縄県民12.3万人(民間人は9.4万人)

・住民への被害~集団自決、スパイ容疑など

勉強復習、予習、テスト勉強などの参考にどうぞ(^_^)

▼歴史記事▼

本記事の内容:第二次世界大戦がわかる(3回目)

民衆の生活

ミッドウェー海戦での敗北

ガダルカナル島での敗退・・・戦況が不利になっていても国民は真実を知りませんでした

日本のやっていることは正しいのだと新聞やラジオなどでも信じ込まされていました。

一方、戦争に反対する人たちは「非国民」と言われて攻撃されました

戦争が激しくなるにつれて生活が大変になってきます

生活物資がないのです

農村などでは、働き手が徴兵でとられたこと、農具や肥料が足りないので食料が作れません

工場や鉱山でも、労働者が戦地に召集され労働力が不足しました

労働力が不足した分を補う形で利用されたのが学生です

「学徒動員(勤労動員)」ですね

中学生や女子も工場などで働かされました

一方、軍需製品などを扱う会社は大きな利益を上げました

食べ物や生活物資がないので、食料が「配給制」になりました

米、木炭、砂糖、衣類やマッチなど様々です

これらの根底にある法律が「国家総動員法」(1938年)です

国家総動員法とは、政府が議会の議決をしないで、戦争に必要な人や物資を動員できる法律であり、国民には、軍需品の工場などで働かされたりする厳しい統制です

もう一つ、理科系や教員系の大学生、高等専門学校生らも、徴兵されていきました。これが「学徒出陣」です

空襲と疎開

1944年にはサイパン島が占領されました

サイパン島がアメリカに占領されるという事はそこからアメリカの飛行機が飛んでくるという事

そして、その距離は言って帰ってこられる=直接爆撃できる距離になりました

以後、日本の工場や都市が激しい空襲にあうことになります

1945年の3月には東京が、5月には大阪が空襲にあい10万人以上の人々が犠牲になり、その100万人以上の人々が被災にあいました

空襲が激しくなると、都市部の小学生は地方の農村へ集団で「疎開」させられました

強制連行

戦争が総力戦(国が政府、文化、産業などすべての面で戦争にむくこと)になり、植民地や占領地からも労働力や兵力を動員しました

朝鮮や中国から日本に連れてこられた多くの人々が、炭坑や土木工事などの重労働を強いられ、安い賃金で働かされました

戦争末期には、朝鮮や台湾での志願兵制度を変更し、徴兵制になり男性も女性も戦地や工場で働かされました

沖縄戦

1945年の3月アメリカ軍が沖縄に上陸しました

本土防衛の捨て石とされた沖縄では、多くの住民が戦闘に巻き込まれました

日本軍によってスパイ扱いされて殺害されたり

集団自決を強いられたりする人々もいました

詳しくまとめると

沖縄戦は、太平洋戦争終わりごろの1945年、南西諸島に上陸したアメリカ軍を主体とする連合軍と日本軍との間で行われた戦いでした。

3月26日の慶良間諸島への米軍上陸から始まり、主要な戦闘は沖縄本島で行われました。

米軍は、沖縄本島上陸前の1週間で約40,000発の砲弾を撃ち込み、1,600機の艦載機で爆撃・機銃を加えたといわれています。

4月1日、本島へ上陸しますが、日本軍の抵抗をほとんど受けることなく、無血上陸に成功し、主力を首里方面へ向けて進撃しました。

北上した米軍も進撃を続け、北部最大の激戦地といわれた伊江島も21日には完全に占領されたのです。

米軍の主力は、4月7日頃から沖縄守備軍の陣取っていた首里方面をめざして総攻撃開始。日本軍も反撃しますが、この戦闘で日本軍は主戦力の8割を失い、5月下旬、首里を放棄して本島南端へ撤退しました。

南へ撤退したが、日本軍はすでに主力の大半を失っており、組織としてはもう終わっていたが、日本兵が自決するも、部下に対して「最後まで敢戦」するように命じていたため、以後、生き残った日本兵が各地で出没します。それは住民にも同じことでした。

沖縄戦の降伏調印式は、沖縄や奄美大島などの周辺の島の軍人が集められ正式に降伏調印式が執行されました。1945年(昭和20年)9月7日です。

この沖縄戦で沖縄県民は2割の方が犠牲になりました(12万人/60万人)

問題

頻出問題①

第二次大戦の末期に、兵力不足を補うため、それまで学生に認められていた徴兵猶予を停止して、学生を入隊・出征させたこと。を何というか答えなさい。

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/02/26/post-2305/

頻出問題②

以下文中の空欄に当てはまる語句を答えなさい

太平洋戦争が開戦する直前の1941年に米の○○制が始まり、消費量が制限された。やがて戦争の長期化や不作で米不足となり、イモや大豆などが代用食として○○されるようになった。

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/02/26/post-2308/

頻出問題③

以下文中の空欄に当てはまる語句を答えなさい

第二次大戦末期、○○本島およびその周辺で行われた日米の激戦。1945年4月の米軍上陸から約3か月にわたる軍民混在の激しい地上戦のなか、集団自決強制、日本軍による住民虐殺なども起こり、県民約10万人が犠牲となった。 

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/02/26/post-2311/

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