#72【中学校社会科 歴史ノート】韓国併合と清の滅亡

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こんにちは

てぃ~ちゃ~Mです

今回は#72【中学校社会科 歴史】「韓国併合と清の滅亡」を紹介します

▼今回の動画はこちら▼

もくじ

ノート用まとめ

韓国併合

日本の侵略政策

1905年~韓国(大韓帝国(1897年~))を保護国とする

     韓国統監府を設置し、内政外交、司法権や警察権をうばう

1907年~軍隊を解散させる

1909年~抗日義兵の安重根が伊藤博文を暗殺。朝鮮民衆の抵抗

1910年~韓国併合条約・・・36年間に及ぶ植民地支配

              ソウルに朝鮮総督府を設置

同化政策・・・日本語による授業、創氏改名、朝鮮の授業の禁止、神社参拝の強制、経済支配(会社の設立は許可制、土地をうばうなど)

中華民国

清朝の打倒を目指す革命団体

清朝・・・科挙→留学。国会開設の約束

革命団体・・・中国同盟会~1905年に東京で結成。国会開設が10年後では遅い

中国同盟会・・・指導者:孫文~三民主義(民族・民権・民生主義)

各地で清朝に対し独立の宣言=辛亥革命(1911年)

1912年~中華民国成立・・・アジア初の共和国。首都:南京。臨時大総統:孫文

清の滅亡・・・清政府(袁世凱)→鎮圧→南京政府(孫文)

袁世凱と南京政府の約束・・・大総統はゆずるが、清皇帝は退位させる。共和制の維持。

約束はするが、実権を袁世凱が握ると首都を北京に移し、独裁政治と弾圧。

混乱が続くことになる・・・

勉強復習、予習、テスト勉強などの参考にどうぞ(^_^)

▼歴史記事▼

本記事の内容:韓国併合と清の滅亡の流れ(日露戦争後の東アジアの様子)がわかる

韓国併合

1910年に日本は韓国を領有して朝鮮と改め、朝鮮に総督府(現在のソウルに日本の役所)を置き、武力を背景に植民地支配を行った。

下の写真を見てみると、韓国の皇太子が日本の着物を着せられています。隣には伊藤博文が立っています。対等な関係の写真なのでしょうか?

違います

ですが、日本が朝鮮の人々に対してやったことを一部紹介すると

  • 身分開放・・・身分の記載を戸籍からなくし、姓を名乗らせる
  • 土地政策・・・土地所有者の確定をし、少数の地主からの搾取をやめさせている
  • 平均寿命が24歳から45歳へ
  • 学校の普及(100校から4500校)
  • 識字率・・・10%から65%

多額の資金を使い朝鮮を変えようとしていました

正しいことでしょうか?

現在の国と国の世界的な決まりには「内政不干渉の原則」というものがあります

自分の国のことに他国が口出しをしないということです

現在でもテレビなどではひどい仕打ちを受けている国の情報などもニュースで流れてきていますが、だからと言って他国のやり方に原則は口出ししないという事です。

日本が韓国併合を行ったという事はどうでしょうか?

思いっきり手を加えています

だから、韓国併合(1910年)以前のころ、1909年に伊藤博文が安重根(韓国の義兵)によって暗殺されています。伊藤博文は韓国に置かれた役所のリーダーをしていました(韓国統監府)

この韓国統監府は韓国の外交や内政や司法、警察権をうばいました

なぜそのような役所を置いたかというと、前回の日露戦争後のポーツマス条約(参考▲日露戦争▲)にて韓国への優越権を日本が得ていたからです

そもそも征韓論という考えがあるのと、大陸進出への足掛かりのためです

でも植民地支配というのは言葉が悪いので韓国を「保護国」とします

そして進めたのが同化政策(皇民化政策)で、日本語による授業や、朝鮮の歴史や地理を授業で禁止したり、日本式の姓名にかえる「創氏改名」です(1939年)。選挙権は認めないなど、自由や権利は制限されていたのです

まとめると

1905年~韓国(大韓帝国(1897年~))を保護国とする

     韓国統監府を設置し、内政外交、司法権や警察権をうばう

1907年~軍隊を解散させる

1909年~抗日義兵の安重根が伊藤博文を暗殺。朝鮮民衆の抵抗

1910年~韓国併合条約・・・36年間に及ぶ植民地支配

              ソウルに朝鮮総督府を設置

同化政策・・・日本語による授業、創氏改名、朝鮮の授業の禁止、神社参拝の強制、経済支配(会社の設立は許可制、土地をうばうなど)

(参考:▲【中学校社会科 地理ノート】朝鮮半島▲

中華民国

清の中でも日露戦争以後変化がおこっていた

清王朝はこれまでの役人制度である科挙を廃止し留学をさせ

国会を開設しようという動きだ

だが、清王朝の国会開設の約束は10年後だった

日清戦争や義和団事件などで清に対しての民衆の不満が高まっていた

だから10年後の国会では遅いと考える人たちが清王朝を倒そうという考えに変化していった

日本の江戸幕府がそうであったように、中国の王朝も清で最期を迎える

日本で活動していた「孫文」は東京にて「中国同盟会」を結成する(1905年)

この孫文の掲げた考えは「三民主義」と言われ、民族主義、民権主義、民生主義といい

三民主義

  • 民族主義は、漢民族の独立と諸民族の平等を掲げ
  • 民権主義は、共和制と民主主義の政治
  • 民生主義は、国民生活の安定と経済的平等をさす言葉である

清王朝は鉄道会社を清のものにして、線路を敷く権利を売ることで外国からお金を借りようとしていた。この政策に反対して革命政府をつくることになる

1911年に、中国の南部で民衆と軍隊が反乱を起こし各地に革命政府ができ、その革命政府が清からの独立を宣言した。これが「辛亥革命(しんがいかくめい)」です

1912年には南京にて孫文を大総統とする中華民国の建国が宣言されました。これはアジアで初めてとなる共和制の国家です(共和国)

ですが、清王朝がまだなくなったわけではなく、清政府を仕切っていたのが軍人の「袁世凱(えんせいがい)」

孫文は袁世凱と話をし、大総統は袁世凱に譲るが、清の皇帝は退位させてほしいということと、共和制は維持するという約束を交わす

袁世凱は約束をし、清王朝は滅亡します。(清王朝最後の皇帝が溥儀(フギ))

孫文に代わって政権を握ると首都を北京に移し、孫文の作った中国同盟会の政党を弾圧、関係者を暗殺していきます。孫文は亡命し、袁世凱は独裁政治を行いますが後に病死します。(1916年)

こうやって中国はふたたび分裂状態になります・・・(以後の中国はまた今度)

(参考:▲【中学校社会科 地理ノート】中国▲

まとめ

帝国主義列強の侵略とアジア内での侵略、植民地化と抵抗。

自らの国の在り方を模索して変化を起こす力をもった民衆の生まれてきた時代である。

大きな国の動きは、小さな人たちの大きな志や変革の思いから成り立っていることを感じさせる出来事です

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問題

頻出問題①

1910年に○○併合条約が結ばれ、以後日本による植民地支配が行われる。ソウルに朝鮮総督府がおかれるなどするが、文中の○○に当てはまる語句を答えなさい。

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/02/17/post-2041/

頻出問題②

中国の政治家で、初め医者であったが、革命を志し、のちに臨時大総統に選ばれたが直ちに袁世凱に譲り、のち軍閥派に反対し、広東を地盤に臨時政府を組織した。

また○○主義の実現に努力し国民党の基礎を固めた。中国革命の象徴、国父として敬愛され続けている。

上の文章の空欄に当てはまる語句を漢字二字で答えなさい

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/02/17/post-2044/

頻出問題③

問題②は誰か。【】から選んで答えなさい

【 蒋介石 袁世凱 毛沢東 孫文 千利休 】

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/02/17/post-2048/

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