中学校で知らないといけない元号(始まりから江戸時代おわりまで)【まとめ】

学校&勉強ブログ

こんにちは

てぃーちゃーMです

本日は

中学社会科で出てくる元号を出来事とともに紹介します(江戸時代おわりまで)

元号は年号ともいわれますが

中学の社会科で出てくる争いや政治の変化などは

その時代の元号をとったものが多いです

ある程度の流れや順番を知れば

迷ったときに役立ちます

(関連記事:▲年代の数え方 西暦 世紀 紀元前後 元号 時代区分▲

もくじ

大化(たいか)

大化改新(645年)・・・虫殺しや蒸しご飯で覚えています

大化の改新は日本の元号のはじまりです

それが「大化」です

そもそもは中国の歴史者の文章からとられているようですが

天皇が各地の王様を導くとかそんな意味のようです

都が難波宮に移され

氏姓制度から律令制度に移っていく時代です

ということは、豪族の支配から天皇中心の政治へと変わっていくことがわかります

豪族の頃は中心には「大王(オオキミ)」でしたからね

なぜ、そのような政治変革があったかと言うと

そもそもは聖徳太子(厩戸皇子)ぐらいまで戻りましょう

聖徳太子と仲が良かったのが蘇我氏(そが)

聖徳太子と蘇我氏は親戚です

蘇我氏は物部氏と仏教を取り入れる入れないでモメた人です

その蘇我氏の家系は

入鹿←蝦夷←馬子←稲目(イナメ)←高麗(コマ)←韓子(カラコ)

どうでしょうか?

おそらくは大陸にルーツがある家系なんでしょう

そもそも仏教は日本からすると、外国の宗教です

物部氏は「仏教を取り入れると日本の神様(八百万の神)が怒るからダメ」といって蘇我氏と対立しました

ですが当時は大陸の方が最先端

物部氏は蘇我氏との対立で敗れます

その蘇我氏の子孫が蘇我入鹿この人物を「乙巳の変」で暗殺します

蝦夷はその後追われて自宅で自ら命を絶ちます

そうして政権を握ったのが

中大兄皇子です

後の天智天皇ですね

一緒に戦ったのが中臣鎌足

後の藤原家の始祖です

翌年の646年には改新の詔によって公地公民によって

「全国の土地と人民は天皇のものだよ」と伝えられます

こうやって豪族が貴族に、大王が天皇になって朝廷と呼ばれる天皇中心の政治機関ができ、全国の土地が天皇のものとされ、税の仕組みや戸籍をとうに見習って作っていきます

大宝(たいほう)

大宝律令(701年)・・・なお一層、整えられる大宝律令

律とは刑罰

令とは政治の仕組み

天武天皇の詔(言葉)で始まったルール作りだか、天武天皇が亡くなったのちに完成

律令制度とは

二官八省国郡里(にかんはっしょうこくぐんり)

です

二官は「太政官(だいじょうかん)」と「神祇官(じんぎかん)」で

太政官が実務を担当しているリーダーと考えてくれたらいい

神祇官は朝廷の行事ごとです

八省とは中務省、式部省、民部省、治部省、兵部省、刑部省、大蔵省、宮内省

覚えなくて大丈夫ですが、大蔵省(お金)と宮内省(天皇周り)ぐらいは知っておきましょう

この八省は今でいうと○○大臣がいるところです

例えば文部科学大臣の文部科学省ですね

太政官はこの八省を管理するリーダーの機関です

地方の支配が大きい単位から言うと「国(こく)」「郡(ぐん)」「里(り)」です

今でいう都道府県、市町村だと考えてください

農民は労役と税を義務とされています、そして管理するのが国司や郡司、里長になります

大宝律令によって法律が作られ、公地公民によって税の仕組みも整えられていきます

その税の仕組みが「班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)」です

戸籍を整えて、だれがどこに住んでいるかを把握し

口分田を与えて土地を耕せさせ(6歳以上男子は2反、女子は男子の2/3)

租庸調と言われる税を集める

  • 租は収穫の3%の米
  • 庸は麻布
  • 調は地方の特産物などです

雑徭と言われる60日の労役があり

兵役によって防人(さきもり)として大宰府(だざいふ)九州の役所へ行かされたり

衛士(えじ)とよばれる都の警備にもあたりました

それが大宝律令が整えられたころの出来事です

和同(わどう)

和同開珎(708年)

日本で初めて流通貨幣として利用されたとされる貨幣です

後の710年は平城京へ遷都された奈良の都の時代です

唐の長安をまねて、碁盤の目状の道路のある都です

そこでは和同開珎が使われていたようです

それだけでは説明が少ないので当時の暮らし関係も

農民は竪穴住居に暮らして厳しい税の取り立てがありました

公地公民、班田収授法により仕組みが整うのですが農民にとってはつらい、だから逃げる

当時の大変さは「貧窮問答歌(ひんきゅうもんどうか)」(山上憶良(やまのうえのおくら))が歌っています

農民が逃げると、税の仕組みが成り立たない

だから逃げないような工夫をする

そこで「三世一身法(さんぜいっしんのほう)」が出される

新たに耕した土地を自分のモノにしてもいいよという決まり(三世代だけど)

ですが、ややこしいのでそのうち、ずっと耕した人の土地でいいよとなります

それが

墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)です

読んで字のごとくなのですが

開墾した土地はずっとあなたのモノですよという決まりです

ですが、これは土地の私有を認めるものなので

逃亡農民を利用して新たに土地を開墾する金持ちが出てきます

それが貴族

そして貴族が力を持つ時代がやってきます

養老(ようろう)

養老律令(757年)

大宝律令に続く明治まで存続した律令

まあテストには出ないのでいいです

天平(てんぴょう)

天平文化・・・奈良時代の仏教文化

聖武天皇は大仏の天皇

有名なのが正倉院にある聖武天皇の遺物

現在の保管場所は正倉院ではありませんが

正倉院は期間で見る来場者数が世界のどこの博物館よりも多い「正倉院展」が開かれることで有名です

螺鈿紫檀五絃琵琶といわれる琵琶は、夜光貝と呼ばれる内側がピカピカ光るエナメル質を持つ貝が磨かれて飾りつけに使用されています。その貝は奄美大島などで捕られていたようです(奄美在住なので宣伝しときます)

仏教によって国を守ると考えた時代です

遣唐使や鑑真もこの時代です

古事記や日本書紀、風土記や万葉集もこの時代ですね

延暦(えんりゃく)

延暦寺・・・比叡山延暦寺

天台宗の総本山(本部)で最澄が開いた寺です

最澄と空海の密教で覚えておく2大人物ですね

延暦寺は延暦の時代に建てられたことで後に元号を寺の呼び名に使っていいよと許可をもらって延暦寺になりました

延暦という元号より延暦寺を覚えましょう

仁和(にんな)

仁和寺は「名探偵コナン」で使われています。迷宮のクロスロードです

テストなどでは出ませんが

徒然草で有名な一部に「仁和寺にある法師」というお話があります

内容は簡単に

仁和寺のとある法師が、年を取るまで石清水八幡宮を参拝したことがなかった、そのことが情けないので、ある時決心して一人で徒歩で参拝した。

極楽寺や高良神社などを拝んで、これで全部と思いこんで帰った。

そうして一緒に修行する仲間たちに向かって、「行ってきたよ。聞いていた以上にすごかった。でも、お参りする人がみんな山へ登っていったのはいったい何があったのか。行ってみたかったが、神社を参拝するのが本来の目的だから、山までは登らなかった」

と言った。

みたいなお話ですが

石清水八幡宮の手前まで行って帰ってしまったというお話です

徒然草は兼好法師(吉田兼好)の随筆で、枕草子(清少納言)と方丈記(鴨長明)とあわせ三大随筆です

承平(じょうへい)

承平天慶の乱・・・平安時代の中頃です

平将門の乱と藤原純友の乱とを合わせて言います

平将門は本家の平氏の一族

後に説明するの平清盛は本家ではない平氏です

平将門は一族でもめていました、それを仕方なしに制圧すると国司から文句を言われてやっつけました

そして自分を新皇と称しましたが、天皇に名で征夷大将軍が派遣されて最終的に、平将門はやられます

藤原純友は、初めは海賊の取り締まりに当たっていましたが

自分から瀬戸内海の海賊になり取りすぎが過ぎる税を、取り返す目的で行動するようになりました

最終的に朝廷の軍にとらえられます

両方とも同時期に起こった出来事なのであわせて呼ばれることが多いです

平将門の乱は933年~。藤原純友の乱は937年~です

天慶(てんぎぎょう)

承平天慶の乱・・・上と一緒

保元(ほうげん)

保元の乱(1156年)・・・いい頃おこった保元の乱

下の平治の乱とあわせて

簡単に状況を説明すると

そもそも、墾田永年私財法で荘園が増える

荘園支配は貴族の支配

貴族で力を持っていたのが藤原氏(藤原鎌足=中臣鎌足の血筋)

藤原氏は摂関政治で実権を握る(藤原道長と藤原頼通の時代が全盛)

藤原道長は望月の歌で有名(参考▲平安時代 藤原氏の繁栄▲

藤原氏が強かったのですが、藤原氏と関係の薄い後三条天皇になると

「荘園整理令」といって藤原氏の力(荘園)を取り上げました

その後は天皇一族が力を取り戻すのですが

天皇一族の中でも権力が二分します

それが天皇中心の朝廷と

天皇を引退した人が「上皇」となって君臨している機関の「院(イン)」です

院を中心に行われた政治だから「院政」と言います

この院や朝廷の土地を警備していたのが武士です

その武士の中でも力を持っていたのが「平氏」と「源氏」

その平氏と源氏の争いになっていくのがこの頃です

保元の乱は後白河天皇と崇徳上皇の対立ですが

平清盛と源義朝(源頼朝の父)は後白河天皇側で一緒に戦っています

そして

後白河天皇側が勝ちます

ですが、戦いの勝利にも、荘園の管理にも武士の力が必要だとなっていくことで

政治での発言力も強くなっていった平氏と源氏が次はもめます

その後引き起こされるのが「平治の乱」です

平治の乱で平清盛が勝利し源義朝は亡くなり、源頼朝は伊豆に流されます

そして権力を握るのが平清盛

武士でありながら武士初の太政大臣になり

港を修築することで日宋貿易を整え(大和田泊(現在の神戸港付近))

厳島神社の社殿を整えて平氏の氏神としました

そもそも海の航海安全を祈願する神社ですが、その背景には日宋貿易があります

貿易を支配することで商品を京都で売り大きく利益を上げていきます

ですが、この厳島神社が平氏政権の終わりのきっかけになっています

当時の朝廷は、石清水八幡宮への参拝を基本としていましたが平清盛はそれに参加しなかったのです

京都の寺社勢力・朝廷が平清盛のやり方に反対しました

すると平清盛は、京都は不利だから兵庫県に都を移そうとします

それには他の貴族も反対し天皇の命令で平氏の討伐令が出されます

そこで出てくるのが源氏です

源頼朝は伊豆に流されていたことで関東の豪族たちと連携を取っていました

関東の豪族と連携が取れる背景には過去の出来事があります

奥州藤原氏とのかかわりです

岩手県の平泉町、世界遺産の平泉のところです

ややこしいので簡単に説明すると

源氏の人が自らの財産をなげうって関東の豪族にお礼をしたことがあります

東北地方、奥州藤原氏の内部争いを朝廷の命を受けていったのですが

朝廷からはお金をもらえなかったので自腹で協力してくれた豪族にお礼をした

という源氏の過去があります

その感謝の気持ちから関東地方の豪族は源頼朝を慕っていました

その裏にいたのが北条氏

鎌倉幕府の執権と言う将軍の下にはなりますが実質の最高機関を務める一族です

この北条氏にはルーツがあります

それが

平将門

北条氏は平氏にルーツを持っています

平将門は正当な本家の平氏一族です

ということは、北条一族は本家の平氏一族の血筋という事です

ですが、平清盛は京都にいる分家(本家ではない)です

「本家では無い平氏が、京都で何を偉そうにしているのだ!」ということで

同じ平氏一族ではありながらも源頼朝側に加勢し、平清盛側を攻撃します

こうして最終的に壇ノ浦(山口県)まで追い詰められた平氏はやられます(1185年)

平治(へいじ)

平治の乱(1159年)・・・いちいちご苦労平治の乱

上と一緒

承久(じょうきゅう)

承久の乱(1221年)・・・いつに行く「いざ鎌倉」

これも色々な人が絡んでややこしいです

源頼朝・・・落馬によるけがの悪化で死亡

源頼家(頼朝の長男)・・・北条氏の暗殺?

源実朝(頼朝の次男)・・・頼家の子によって暗殺?される。だが北条氏の影がある。

源頼家は政治の仕方が独裁だった、そこで、宿老(偉い人)の話し合いで決めましょうという事になって実権を握ったのが有力な御家人(武士)であった北条時政(初代執権)

後に実朝も殺されるが、この実朝と仲が良かったのがその時の上皇である

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇は源実朝の名付け親ともいわれていて、次期の征夷大将軍に、後鳥羽上皇は自分の子供を付けようとしていた

実質の源実朝の後継者としてわが子を位置づけようとしていたのです

そんな中で源実朝が亡くなっていったのです

しかも裏では北条氏が怪しい・・・

となると後鳥羽上皇にとっては、源氏の征夷大将軍がいなくなり執権である北条一族か実権を握る鎌倉幕府は邪魔な存在です

後鳥羽上皇「(北条氏が実権を握る)鎌倉幕府を倒せ」

鎌倉幕府の時の執権「北条義時」と源頼朝の妻にあたる北条正子(尼将軍)は幕府に従う武士に言います

源頼朝が与えてくれたご恩を忘れたのか?今こそ奉公するべき時だ!と

御恩と奉公ですね

で、この上皇と幕府の戦いが「承久の乱」です

これは幕府側つまり執権政治を敷いている北条一族が勝利します

ちなみに北条義時の子である北条泰時の頃に出される武士の決まりが「御成敗式目」です

ですが運命は皮肉です

平氏の本家である北条一族は足利一族に滅ぼされます

この足利一族は血筋が源氏なのですから

文永(ぶんえい)

文永の役(1274年)・・・せまる元軍ひとになし

迫る元軍ですね

元寇です

元とはフビライハンのつくった国でいいです

フビライハンはチンギスハンの孫です

チンギスハンはモンゴル帝国を築いた人物です

元軍が日本に攻めてくるのが元寇ですが

2度にわたって攻めてきました

1回目が文永の役

2回目が弘安の役です

フビライハンは鎌倉幕府の実権を握る、執権の北条時宗に手紙を送ります

「わたしのおじいさんはアジアの大陸を支配したすごい人だぞ。日本もいう事聞かないとどうなるかわからないぞ」と

脅しです

何度か手紙を受け取るのですが、幕府側は無視を続けます

あまりにもしつこいので元からの使者を斬ってしまいました

これにはフビライハンも怒って日本に軍隊を送ってきます

これが元寇です

集団戦法や毒矢、てつはうなどの火器をつかったので日本は苦戦したといわれますが逆です

苦戦したのは元軍です

そもそも元軍は混成軍

混成軍とは色々な国の人たちの寄せ集めです

統率が取れていません

ですが、日本の武士は少人数の部隊を組んで馬を使って切り込んでいきます

日本の武士は、まとまりがあるのです

そもそも刀がじゃっかん曲がっているかご存じですか?

刀はぶった切る目的ではなく切り抜けるものです

西洋の剣は両方に切れる部分がついていて、バットのように振り切ることでモノをぶった切ります

ですが日本の刀は片刃です、片方にしか切れる部分はありません

逆の「みねうち」を全力ですると刀は結構簡単に壊れてしまいます

鎧で固められた体でも、関節部分は鎧にはおおわれていません

そういったところを切り抜くためにはぶった切るでは使いにくいのです

だからじゃっかん曲がっています

そして、日本の刀はよく切れました

鉄に含まれる炭素の含有量が良いバランスなのだとか・・・(社会科専門なので理科はそこまで深くは知りませんm(__)m)

統率の取れた武士、よく切れる刀、そして暴風雨

台風が来るという事は夏場

夏場に船で大群でやってきて困るのが食べ物が腐ること

当時の元軍は食べ物が無くなり、湿気と暑さで空気が汚れ病気が蔓延していました

とりあえず攻めてきたけど散々だったという事です

ですが、そのまま元へ帰っても「負けました」ではフビライハンに「死刑」と言われます

だから戦わざるを得ない

それが元軍の本当のところです

では、なぜ下の絵のように日本の武士が苦戦してるように描かれているのか?

それは、これだけ頑張ったのだから褒美をたくさんちょうだいと言うためです

楽勝の様子を描いてしまうとお金が少ししかもらえないかもしれません

これだけ大変な思いをしたのだからお金はたくさんくださいねと幕府に言うためです

ですが

幕府には上げるモノがなかった

鎌倉幕府は土地をあげるもらうで成り立っている封建制度です

元軍が攻めてきただけで、元の土地を奪ったわけではありません

だから頑張った武士にあげる土地が無い

幕府の信用は落ちます

でも、フビライハンは亡くなってしまったので3度目の襲来はありませんでした

弘安(こうあん)

弘安の役(1281年)・・・人に矢を射る公安の役

上と一緒

永仁(えいにん)

永仁の徳政令(1297年)・・・皮肉な結果の徳政令

元寇は幕府にとっての打撃だけではありません

武士たちもタダで出撃しているわけではなく

戦いにはお金がかかります

幕府からお金がもらえたら払えるのですがお金がもらえなかったので借金が返せない武士も出てきました

だから幕府が言います「借金を帳消し(無し)にします」と

この借金帳消し令が「徳政令」です

ですが、借金を帳消しにしたところで生活は改善しませんでしたし、お金を貸した人たちからも不満が上がってきました

そんな鎌倉幕府を終わらせようと計画したのが後醍醐天皇(ごだいご)です

計画に乗ってくれたのが足利尊氏や新田義貞、後醍醐天皇に従った悪党(地方の武士)が楠木正成です

そして鎌倉幕府は滅びます(1333年)

建武(けんむ)

建武の新政(1334年)・・・いいさ、さよなら建武の新政

後醍醐天皇による政治の仕組みの一新

ですが、公家を重視し武士を大切にせず

不公平なほうび、土地問題など解決できず混乱を招きました

それは二条河原の落書で伝えられています

「この頃都に流行るもの 夜討ち 強盗 謀(にせ)綸旨(りんじ) 召人(めしうど) 早馬 虚騒動(そらさわぎ) 生頸(なまくび) 還俗(げんぞく) 自由(まま)出家 俄か大名 迷い者 安堵 恩賞 ・・・」

出だしだけ覚えておきましょう

正長(しょうちょう)

正長の土一揆(1428年)・・・意志にはかてない土一揆

土一揆の「土」は、当時農民・百姓のことを「土民」と呼んでいたことに由来します

近江(滋賀県)の馬借(運送業者)が徳政令を要求しておこります

当時、病気がはやっていて農作物も不作が続いていました

奈良の大仏もそうですが、当時は自然災害や不作などは天皇の政治が悪いからだとされました

だから借金の帳消しを要求します

そのときの碑文(石に刻まれた文字)がこちら

「正長元年ヨリ サキ者カンへ四カン カウニヲ井メアル ヘカラス」

「正長元年より以前の、神戸(かんべ)四箇郷における負債は一切消滅した」

よく問われるのが「ヲ井メ」とは何でしょう?です

文章と照らし合わせにくいかもせれませんが「負債」です要するに「借金」です

借金は無くなったと石に刻んでいるという事です

正長以外にも嘉吉(かきつ)の土一揆なんかもあったりしますが次いで程度で大丈夫です

応仁(おうにん)

応仁の乱(1467年)・・・いよいよむなしい応仁の乱

和室の源流をつくった足利義政(8代将軍)ですが

政治の世界からは疎遠になります

銀閣(慈照寺)の造営で有名な人物ですが、義政の次の将軍の跡継ぎ問題でもめました

その中には御家人の中でも力を持っている守護と呼ばれる役割の人々が勢力争いをしています

応仁の乱は将軍家、守護、三管領らがそれぞれ二分して争った戦いです

10年続き舞台は京都

京都は焼け野原になりました

職人も京都では仕事ができないという事で地方へ行くことで

地方に根付いた工芸品なんかもあります

天正(てんしょう)

天正遣欧少年使節(1582年)

本能寺の変の年です

九州のキリシタン大名である大友宗麟らによってローマに派遣された使節

返ってきたのは豊臣秀吉の頃

使節の成果として、日本の存在をヨーロッパに知らせたこと

日本側は、彼らが持ち帰った印刷機(グーテンベルク印刷機)によって活版印刷が行われるようになった

文禄(ぶんろく)

文禄の役(1592年)・・・異国に出兵秀吉軍

下と合わせて

文禄・慶長の役は豊臣秀吉の朝鮮出兵です

これには先代からの思いがあります

先代とは?

そうです

織田信長です(諸説ありますが)

織田信長と言えば足軽鉄砲隊、楽市楽座、石山本願寺、比叡山延暦寺の焼き討ちなど様々あります

織田信長は何をしたかったのか?

それは、「経済を支配し天下を取る」です

実際、織田信長は、大阪の堺の自治権を奪っています

堺は当時は鉄砲鍛冶が多くおり、貿易港も近く一大産業都市でした

楽市楽座も同じです

織田信長が始めたわけではないですが

市を開放することで経済の活性化をはかり

営業税をとって収入にするというやり方です

愛知から滋賀、京都、大阪で石山本願寺などの仏教勢力の排除

石山本願寺の跡地に城をたてる予定もあったと考えられています

大阪城の建築も、豊臣秀吉は織田信長の意思を継いだといわれています

だとすると

秀吉の朝鮮出兵はそもそも織田信長が考えていたのとも考えられるでしょう(諸説あります)

ですが、織田信長は明智光秀の謀反に合い本能寺にて自害します

それを聞き、秀吉が駆けつけて明智光秀を討ちます

そして、豊臣秀吉は太政大臣、関白、になり天下を統一するわけです(省略)

そして朝鮮出兵

1回目が文禄の役

2回目が慶長の役です

慶長(けいちょう)

慶長の役(1597年)・・・以後苦難の豊臣秀吉

上と同じ

慶安(けいあん)

慶安の御触書(1649年)・・・色よく見える御触書

江戸幕府が農民統制のために出した決まりとされるが・・・真実は疑わしいようです

百姓はぜいたくせず、農民は農業に専念することで安心して暮らせるといった内容のもの

元禄(げんろく)

元禄文化・・・上方(京都や大坂)で栄えた町人文化

当時、商品作物などの生産が活発になり経済活動が成長していた

それにともない町人が文化の担い手になっていく(もちろん武士もそうだが)

近松門在衛門の「曽根崎心中」や、井原西鶴の「日本永代蔵」、菱川師宣の「見返り美人」などの絵画など、実社会を映し出す作品が多いのが特徴

また、元禄時代は徳川綱吉の政治の時代でもある

徳川綱吉と言えば「生類憐みの令」の犬公方です

正徳(しょうとく)

正徳の治・・・新井白石の政治(詳しくはこちら▲江戸時代 元禄時代▲

享保(きょうほう)

享保の改革・・・徳川吉宗(8代目)の改革(詳しくはこちら▲享保の改革▲

天明(てんめい)

天明の飢饉・・・1782年~1788年にかけてのききんで、江戸時代の四大飢饉の中でも最大級の被害

東北地方が中心で、悪天候や冷害で収穫が激減

そんな中、岩木山、浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせる

火山灰は日光を遮って冷害をもたらした

これにより、農作物には壊滅的な被害がでた

翌年からひどい飢饉になった

しかし、各藩は幕府から責任を取らされるのではないかと思って報告せずにいた

そのことが一層被害を深めた

農村部から逃げ出した農民は各都市部へ移り住み都市の治安が悪くなる

異常気象も重なって、江戸や大坂で打ちこわしが起こり荒れた

その後全国各地へ打ちこわしが広まる

これを受けて幕府は寛政の改革を始めることになる

寛政(かんせい)

寛政の改革・・・白河藩主の老中、松平定信による改革

囲い米、七分積金、人足寄せ場、棄捐令(詳しくはこちら▲寛政の改革 松平定信▲

以前の老中が田沼意次

よく使われるのが、この歌

「白河の 清きに魚も住みかねて 元の濁りの 田沼恋しき」

要するにクリーンな政治だったが効果が無かったから、前の田沼意次の頃の方がよかったという意味です

松平定信は白河藩の藩主で、白河藩の財政立て直しに成功したことで老中になって改革に着手するのだが

そもそも吉宗の孫にあたる人物

だから改革も吉宗よりになっていて米へのアプローチ、質素倹約などがあり

棄捐令で武士の借金を帳消しにしたりと、信用を失う事もあった

一方、職業訓練所にあたる人足寄せ場や、飢饉対策に積立金をするなどまじめな性格だったが効果はいまいちと言う感じですね

天保(てんぽう)

天保の改革・・・老中、水野忠邦による改革

当時、大阪では大塩平八郎の乱

諸外国の日本への接近

国内の対策などなど

問題は山積みだった

日本国内はすでに貨幣経済が広まっていることもあるが江戸幕府自体の収入源は年貢=米だ

米本位というが、基本の収入が米なことを変化させようとした人たちもいるが(荻生徂徠など)江戸時代は変わらなかった

だから改革内容もあまり効果のないやり方になる

質素倹約、株仲間の解散、人返し令(農業しなさい)、上知令(江戸・大阪周辺の土地を幕府の土地にする)などでした

結局失敗したことで幕府の権威は弱まります

慶応(けいおう)

慶応・・・江戸時代最後の元号

この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。

江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。

孝明天皇は妹の和宮が有名でしょう

その和宮と結婚したのが徳川家茂

これが公武合体

幕府の権威回復作戦です

ですが、幕府を倒す方向になっていき、戊辰戦争

江戸幕府は最期の将軍慶喜で終了します

江戸時代が終わり迎える明治で新たな改革がどんどん行われていくのです

まとめ

今回は

江戸時代までの元号と出来事を紹介しました

勉強の参考にしてください

私も少しでも学生の勉強の足しになればと

授業の記事・動画をまとめていますので参考にしてください

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