#66【中学校社会科 歴史ノート】明治時代の文化の変化と外交

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てぃ~ちゃ~Mです

今回は#66【中学校社会科 歴史】「明治時代 文明開化と日本の外交」を紹介します

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もくじ

ノート用まとめ

文明開化

明治時代になり、欧米列強に対抗するための急速な近代化・西洋化のこと

洋服、洋食(肉食)、レンガ造りの建物、ガス灯など

岩倉使節

岩倉具視、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳、留学生

不平等条約は改正できず

領土の確定

1869年~蝦夷地を北海道とする。開拓使を設置し、屯田兵により開拓と防備

1871年~岩倉使節の派遣

     清と日清修好条規を結ぶ

1872年~琉球王国を琉球藩とする

1873年~西郷隆盛らが征韓論を主張

1874年~台湾出兵により琉球が日本の領土と認められる

1875年~江華島事件がおこる(日本がソウル近郊の江華島を無断で測量し朝鮮から砲撃される。日本が反撃し砲台を占拠した事件)

     樺太千島交換条約をロシアと結ぶ

1876年~朝鮮と日朝修好条規を結ぶ(朝鮮にとって不平等条約)

     小笠原諸島を日本の領土と宣言

1879年~琉球を廃止し沖縄県を置く(琉球処分)

勉強復習、予習、テスト勉強などの参考にどうぞ(^_^)

▼歴史記事▼

本記事の内容: 明治時代の文明開化の様子と岩倉使節の海外視察の結果と日本の外交がわかる

文明開化

江戸時代が終わり明治時代になると、日本人の生活は欧米を意識したものへと変わっていきます。欧米列強に対抗するため、急速な近代化・西洋化を進めます。こうした動きを「文明開化(ぶんめいかいか)」といいます。ですが、そう単純でもありません。まずは例を紹介します

具体的な内容として

前回も紹介しましたが

徴兵制度や交通・通信

鉄道 – 明治5年(1872年)、新橋(1986年廃止)~横浜間が開通し、蒸気機関車が運行開始。 近畿地方では1874年に大阪~京都~神戸間が開通する。

人力車や蒸気船

などの交通機関ができてきた

電信や郵便制度 – 前島密「郵便制度の父」郵便制度の提唱者

その他建物や道路は洋風建築になり、レンガ建築が出てくる。ガス灯などもともるようにもなるが、地方では急速な変化はなくゆるやかに変わっていった

官営工場として富岡製糸場が1872年に操業開始。

服装などの変化もある

明治4年(1871年)に断髪令が出され

「半髪(はんぱつ)頭を叩いてみれば因循姑息(いんじゅんこそく)の音がする。総髪頭(そうはつあたま)をたたいてみれば王政復古の音がする。散切頭(ザンギリあたま)をたたいてみれば文明開化の音がする。」

と歌われた。

洋服を着るような人も出てくる

肉食(牛鍋)それまでは仏教の観点から生き物の肉はタブーです。学制の施行。太陽暦の採用。お雇い外国人(大森貝塚を発見したモースや札幌農学校の教頭のクラークなど「少年よ大志を抱け」の人)。新聞や思想の変化も見られる。キリスト教の解禁(1873年)もそうだが、

福沢諭吉の『西洋事情』『学問のすゝめ』=「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず・・・」

一万円札の人物で、慶應義塾を設立した人物ですね

学問のすすめ (いつか読んでみたかった日本の名著シリーズ1)

この「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず・・・」の考えにあるのが啓蒙思想。ヨーロッパの絶対王政からの変化のところで紹介しました(参考記事▲近代世界とアジア▲)。

中江兆民という人物は「東洋のルソー」と呼ばれた人物で、ルソーの著書「社会契約論」翻訳し「民約訳解」として紹介しました。

簡単に言うと、「人間はみんな平等である」という考え方。日本は、江戸時代は士農工商(武士と農民と商工業者)。そこから明治政府は変革を行います。そう、「四民平等」ですね。

前回も紹介しましたが、これは武士階級の解体と軍隊の近代化が背景にあります。

(参考:▲【中学校社会科 歴史ノート】明治時代の諸改革と経済政策▲

ですが、平等はまだ実現はしていません。その後、「自由民権運動」といって国民の自由と権利を求める動きが盛んになり、民主主義の動きになっていくわけです。(みんなのことはみんなできめる)。

様々な目に見える変化をもたらしているものでもありますが、目に見えない「思想」という部分も大きく変わっていった変革の時代でもあるのが文明開化ということです

岩倉使節団

 まず二枚の画像を見てください

男性五人で写っているのが、岩倉具視中心の「岩倉使節」

女性たちは留学生で津田梅子(右から2番目)という人物がいます

この女性は、2024年度発行予定の新しいお札の一人です。5千円札の人で、日本で最初の女子留学生としてアメリカで学んだ人物です。

ちなみに、それ以外のお札は1万円札に「近代日本経済の父」渋沢栄一、千円札には破傷風の治療法を開発した細菌学者の北里柴三郎です。(岩倉使節とは関係ありませんが一応)

岩倉使節は、アメリカへわたり、ヨーロッパを回ってアジアにより日本へと帰ってきます。

目的は2つありました

  • 欧米の進んだ政治や産業の視察
  • 不平等条約改正の準備

の2点ですが、日本が以前に結んだ条約「日米修好通商条約」ですが、これは不平等な内容の条約でしたね

(参考:▲日本の開国▲

この改正をすすめようとしましたが、欧米諸国と日本の発展に格差を感じ、「諸外国と対等な立場になるためには国力の充実が先だ」と考えるようになります

同行している大久保利通はこう手紙を残しています

「製作品は他国から輸入し、これを他国へ輸出するものなり・・・」

これは加工貿易のことを言っています。日本も産業の育成が大切だと痛感しているわけです。

もう一つ、アジア諸国もまわっているのですが、そこで見たものは欧米とは違いました。

植民地支配による搾取される側です

欧米との格差がありすぎ、農業を中心とする国では欧米列強に植民地支配されてしまう。だからこそ、日本は掲げました「殖産興業」を。そして、農業国から工業国へと変わっていこうとしました。

ところが、日本へ帰国すると様子が違っていました。

武力で朝鮮(大陸)へ進出するぞという

「征韓論」

がおこっていました。

大陸への進出は植民地支配している国(ヨーロッパ)と戦うことになってしまうかもしれない。そうなると負けてしまうから何より国力の充実が先だ!と考えるグループと、大陸進出を考えるグループとに分かれてしまいます。

流れ的なところもありますが、この時期の外交関係はややこしいです

一度年表で書き出してみると

外交年表

1869年~蝦夷地を北海道とする。開拓使を設置し、屯田兵により開拓と防備

1871年~岩倉使節の派遣

     清と日清修好条規を結ぶ

1872年~琉球王国を琉球藩とする

1873年~西郷隆盛らが征韓論を主張

1874年~台湾出兵により琉球が日本の領土と認められる

1875年~江華島事件がおこる(日本がソウル近郊の江華島を無断で測量し朝鮮から砲撃される。日本が反撃し砲台を占拠した事件)

     樺太千島交換条約をロシアと結ぶ

1876年~朝鮮と日朝修好条規を結ぶ(朝鮮にとって不平等条約)

     小笠原諸島を日本の領土と宣言

1879年~琉球を廃止し沖縄県を置く(琉球処分)

北海道

蝦夷地の開拓をすすめた。開拓使という役所を札幌に設置し、屯田兵と呼ばれる開拓と防備を行う人を各地から移住させて仕事にあたらせた。

北海道は気候の厳しい土地だ。今でこそ農業が盛んだが、昔は冷たい凍った土を耕すことも大変だったし、泥炭地と呼ばれる沼地があちこちにあり、土の入れ替え(客土)を行うなど北海道開拓はとても大変だった

それと、もとから北海道に住んでいたたアイヌの人々の土地を奪うようになっていった。

同化政策といって、農業化をすすめ、狩りを禁止し、日本語や日本名の強制がありました

琉球

琉球王国は薩摩藩の支配下にあったが、清にも朝貢貿易を行っていた

(参考:▲鎖国時期の貿易統制▲

政府は琉球を日本の支配下に置くためにまず、琉球藩をおきました

その後、台湾で、漂着した琉球の人たちが暴行を受けたことを理由(「日本の国民を暴行するとは何事だ!」という因縁ですね)に台湾へ軍隊を送ります

これが台湾出兵です

清からの賠償金を受けることで事実上、琉球は日本の領土と認められたことになります

ですが、それまでの体勢から、日本の一部となった琉球政府内では、明治政府に反対する人たちもいました

だから政府は琉球に軍隊を送り、これをしずめ、琉球藩を廃止して沖縄県とし、琉球王国はこれでなくなりました

清とはそれ以前に日清修好条規で国交を回復していますので、賠償金というかたちで平和的?(一方的ですけどね)に解決したのですが、日本と清とで条約を結ぶ背景には朝鮮を考えての行動でもありました

朝鮮

日本の考えは、朝鮮は昔は日本の土地だった。それは「古事記」や「日本書紀」にものっているぞ。だから朝鮮に進出し日本の支配下にするぞ。

対する朝鮮は、当時鎖国(貿易統制)で外国勢に関しては打払うというかたちをとっていました。

日本は、相手にしない朝鮮に対しいら立っていましたが、日本の国内では征韓論に反対している人もいます。

そんな朝鮮に対しても交渉は続けていた。表向きの理由としては測量として、、、

そんな中、江華島(現在のソウルの近く)を調査した際、朝鮮の砲台から攻撃されました。これを受けて日本は反撃し、砲台を占拠します。この事件に関して謝罪を求めた日本に対して条約を結ぶことになります。それが、日朝修好条規です

内容は

  • 関税は無し(日本の製品が朝鮮国内で安くで出回る)
  • 日本の治外法権を認める
  • 開港する
  • 中国の宗主権(中国が親分という考え)は否定

というような内容だった

まとめ

外交として、様々な領土の確定があるが、日本が一つの国として領土を確定していき、国内の整備を整え、どのような日本を目指そうとしていたのかが薄っすら理解できる時期である。その後の日本国内の動きも大きいものがあるが、付き合う外国の格差も大きい。

国内外に向けた取り組みがこれからもっとさかんになっていく。

問題

頻出問題①

江戸時代が終わり明治時代になると、日本人の生活は欧米を意識したものへと変わっていきます。欧米列強に対抗するため、急速な近代化・西洋化を進めます。こうした動きを何というか答えなさい。

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/02/07/post-1840/

頻出問題②

これらの人物の中心に座っている人はだれか。下から選んで答えなさい。

【 岩倉具視 大久保利通 木戸孝允 伊藤博文 山口尚芳 】

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/02/07/post-1845/

頻出問題③

江華島を調査した際、朝鮮の砲台から攻撃されました。これを受けて日本は反撃し、砲台を占拠します。この事件に関して謝罪を求めた日本に対して条約を結ぶことになります。この条約(その他の決まり事も含む)を何というか漢字6字で答えなさい。

答えhttp://teacherceo-masajirusi.com/2020/02/07/post-1848/

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